H先生と挑んだ文系から医学部への道
西新宿内科つながりクリニックの臼井靖博と申します。
当院の「つながりブログ」をご覧いただき、誠にありがとうございます。
今回は、私の高校時代のお話です。
市立下田中学校を卒業した私は同じく地元の県立下田北高校に進学しました。明治時代に私立豆陽中学として設立された歴史を持つ高校ですが、普通の田舎の公立高校で、進学校ではありませんでした。ちなみに現在は統廃合して下田高校と名称変更しています。
高校でも中学の同級生らと一緒に吹奏楽部に入り、3年生の時には吹奏楽コンクールで県大会に進むことができました。曲はベルリオーズの幻想交響曲。3年生の夏休みまで部活に明け暮れ、コンクールが終わってから受験勉強を始めるという、なんとものんびりとした受験生でした。進路についても中学時代の夢のまま決めていました。日本史が好きだった私は、「教員免許をとって、中学、高校で歴史を教えながら、吹奏楽部の顧問になりたい」と考え、当然のように文系コースを選択していました。
そんな私が医学部受験を志したのは、3年生の夏休みのことです。なぜ急に医師になりたいと思ったのか――それは精神科医である叔母の影響でした。叔母は下田で開業し、今も現役で診療を続けています。当時の私は、朝早くから夜遅くまで精神科に限らず、すべての患者さんを診療し、往診にも出かけていく叔母の姿に「生涯をかけるに値する仕事だ」と肌で感じていました。
3年生の担任は国語のH先生でした。夏休みにあった進路相談で私はいきなり「医学部に行きたいです」と伝えました。H先生は「何を血迷っているのか」という表情で私を見つめ、「理系の科目をとっていないから医学部を受験することはできないし、そもそも今の学力では足りない。それに私立はお金がかかるよ」と諭すようにおっしゃいました。H先生に「私立に行けるお金はないので、国公立に行くつもりです」と宣言したのを覚えています。
とはいえ私自身も医学部に行ける学力がないことや、自分が選択していない理系科目が必要なことは分かっていましたので、現役合格は無理だろうと思っていました。しかし、時間を無駄にするわけにはいきません。今の私でも受験できる国公立の医学部はないかと受験情報誌「蛍雪時代」を調べました。そして、ほとんどの大学が理系科目を選択していないと受験すらできない中、山形大学医学部の一般推薦だけが受験可能であることを見つけたのです。
すぐにH先生に伝えて推薦状をお願いしました。先生は「神様仏様を思い浮かべて、(推薦状を)書いてみるよ」と快く引き受けてくださいました。また、受験科目について入試要項には「小論文、面接」としか書いていなかったため、H先生は直接、山形大学に問い合わせてくれました。おかげで小論文といっても、英語の長文を読んだ上で論述する形式であることが分かり、そこから先生によるマンツーマンでの小論文の特訓が始まりました。
受験当日、山形大学は雪に覆われていました(人生で初めて見る雪でした)。小論文の英語は、H先生の特訓の成果か、不思議なくらいすんなりと理解できました。同時に「僕がこれだけ分かるなら、みんなもスラスラ解けているのだろうな」と思ってもいました。
合格発表の日。新聞で私が合格していることが分かった叔母が、「合格したよ!」と大声をあげて私の部屋に飛び込んできました。一瞬、何が起こったのかわかりませんでしたが、次の瞬間には「やったあ!」と抱き合って喜んでいました。その夜は興奮してとうとう一睡もできませんでした。
翌朝、眠い目をこすりながら登校して職員室に直行し、H先生に「先生、合格しました」と報告しました。先生はキツネにつままれたような顔で「嘘だろ?」と一言、そして「まさか受かるとは思わなかったけど、臼井なら、もしかしたらと思っていたよ。おめでとう」と言ってくださいました。他の先生方も集まって「おめでとう、よくやったな」と拍手をしてくれました。
このように、私は医学部を目指す受験生として、ありえない過程を経て医師になりました。そんな私を支えてくださったH先生はその後、下田高校の校長になられ、ライフワークの漱石研究や、地元の文学史の編纂などで活躍されていましたが、先日鬼籍に入られました。先生のご冥福をお祈りいたします。